南三陸は、流域が町域という珍しいまちです。つまり、山から海までがひとつながりで、水を通じて、すべてのものが志津川湾に注ぐ、いわばミニ生態系です。しかし、その特徴を地元の人が価値だと感じる段階には至っていませんでした。
一方、南三陸町には町立の「自然環境活用センター」があり、新たな展開を模索していました。そんな中、私の大学時の指導教官(海藻の研究者)が南三陸町に講演で来た時、「志津川の人たちは良い環境の価値に気づくべきだ」と言ったら、「そんなに志津川が素晴らしいなら引っ越してきたら」と言われたことがきっかけとなり、1999年、先生は同センター所長として就任することになったのです。
私は当時、別の生態学の研究所にいましたが、ぜひ教育をやりたいと思い、2000年に先生のところに押しかけ(笑)、本センターのコンセプトづくりから始めました。そこで、南三陸の自然を題材に、そこに暮らす生き物や生態系の役割などを、子どもから大人まで現場で知ってもらう「南三陸エコカレッジ事業」を立案。それがそもそもの始まりです。
資源はどんな地域にもあるはずです。ただし、誰かが発見するまでは資源ではありません。多様な人の視点が入ることで、地域の資源が発見されていく。さらに、それを活用できる形に加工することで、色々な人が使えるようになっていく。そんなプログラムを開発し活用方法までパッケージ化することで、地域が題材になります。
本センターではこれまで3人のポスドク(博士研究員)を採用しました。彼らが地域で研究を行い、そこで生まれた研究から今度は教育プログラムをつくる。それぞれ独自のことを研究するので、地域も活きるし、その人も活きる。お互いにハッピーになれると思います。
具体的には、海藻おしば講座や磯観察ツアー、スノーケリング教室などを開設しました。さらに同センターの活動の結果、新たなダイビング・ポイントも生まれ、ダイバー向けの講座も開設しました。後半はサイエンスキャンプや大学生インターンシップの受入など、人材育成にも力を入れていました。
環境省「モニタリングサイト1000」では全国に数個しかない藻場のサイトとして選ばれました。ここが北方系の昆布と南方系の海藻が混在するエリアであることと、本センターで研究者の受入が可能な点が選定理由となりました。ここ志津川湾には絶滅危惧種の海草も生息していますが、地元の人はよく知らず、漁業の邪魔者として扱われることもあります。ところが、別の視点から見れば、これらの海草が稚魚の隠れ場所になり、あるいはその海草を食べに、世界で5千羽しかいない水鳥の希少種「コクガン」がやってきます。このように、別の視点から見ることで、地元の人が地域の資源をさらに活用できるようになるのです。そんな理解増進のお手伝いが本センターの役割でした。
本センターには、いろいろな立場の人たちが集まってきました。しかし、お互いの利益を主張するだけでは、一方的な関係になって続きません。本センターは、お互いの価値を伝えるためのハブ、通訳としての役割が大きかったのかなと思っています。
東日本大震災で発生した津波によって、南三陸町の市街地にあった約75%の建物が流されました。本センターも消失し、これまで収集した標本データも全て失いました。しかし、人と人とのつながりや、これまで培ってきたノウハウは残っています。自然環境も残っています。逆に、震災をきっかけに町の自然環境の価値を見なおしたり、新たな連携が生まれた今をチャンスだと捉え、この状況を利用して持続可能な地域をつくることが、次の我々の役割だと考えています。
南三陸町では「バイオマス産業都市構想」を策定し、地域の特色を活かしたエコタウンを目指しています。取組の一つは、生ゴミからメタンガスと液肥を製造し、メタンガスはエネルギーとして自施設で利用し、液肥は農家が畑の肥料として使って還元します。もう一つは、木質ペレットです。南三陸町は8割近くが山林で、放置されている山が多いため、利用されていない木材で木質ペレットを生産し、ボイラーやストーブ用などに供給して熱として利用します。
持続可能性と地域内循環を再優先する。生命活動に必要な最低限のものは、できる限り、地域内でまかなえるようにする。これは、震災を体験した地域の義務でもあります。その側面支援をしていくのが、本センターの役割だと思っています。
ようやくセンターの復旧が具体化する段階にまで来ました。現在の町役場があるエリアにセンター再建を計画しており、次年度から設計を始めて、平成28年度中の完成をぜひ目指したいと思います。ここに来れば、より森・里・街・川・海のつながりを感じられ、南三陸町の取組全体を一般の方が実感できるような施設をつくりたいですね。